「祈り」と「執着」の違い

Titania

2010年07月02日 08:37

「こうなりたい!」

と「目標」を持つこと。

とっても大事だと思いますし、

素敵なことだとも思います。





これが、

「向上心」となって、人間の進化にも繋がっているのだとも。





でも、これが、

『執着』なると、よろしくない。。。。















これって、

誰しも、進みだすと、分かんなくなりやすいと思いませんか?

私は、すぐに、分かんなくなります。(汗)





「こうなりたい!」

から、

「こうなったら良いな。」

「こうなるために、やってみよう!」

「こうなるように、頑張ってみよう!」

などなど、

「希望」や「思い」は、

『祈り』のように、

清らかに、清々しく、輝いている。





これが、いつの間にか、ズレてきだすと、

「こうあるべき!」

や、

「こうなければ嫌だ!」

や、

「なんで、どうして、、、、、」

と、

マイナスを引き込みやすい感情に変わっていきやすい。





このバランス、

ほんと、難しいよね。















確かに結果は大事。





たまーに、私も、

「結局、でも、結果なんだよね。」

と言ってしまうこと多いです。





でも、これって、

一つの結果に『執着』してしまうと、

批判的になったり、

自己卑下が酷くなったり、

ヨロシク無いことが、次々と湧いてきてしまう。





結果は、

「一つとは限らない」って訳ですよ。





「転んでも、ただでは起きない」的な発想とでも言うのかな?

「失敗した事が意味がある」

くらいの勢いとでも言いましょうか?

結果を「一つ」に限らなければ、

この発想はしやすいし、柔軟性も出て気安くなりますよね。















以前、ある方に、

一度、相談したことがった。

それは、

どう『執着』しないで、「目標」や「思い」と遂げるように進められるか?

という事。





「神様に委ねるんだよ!」

と、いう言葉をもらった。

「へ???そのまんま、丸投げで良いの???」

と聞くと、

「いやいや、最初っから、丸投げではダメだよ。

出来るだけ、自分でやれるだけの事をして、その後は、神様の委ねるんだよ。」

ということだった。





その時の私には、

かなーり、腑に落ちる内容だった。





「神様の言う通り!」

と、

そのまんま、丸投げだと、自分の成長が無い気がしていたので、

「やるしこやって、頑張って、もう、後は何もすることはない!」

ってなって、

「後は野となれ!山となれ!」

の境地とでも言いましょうか?

そんなとこまで行ったら、

もう、『執着』もへったくれも無いんだろうな。

と、思えた。





そして、その時の悩み(以前の車がらみの金銭問題です。)が、

相手先がやってくれないと解決できないという、

自分では動ける範疇が少ない事柄で、苦しくってもがいていたんだけど、

「出来るだけのことをアプローチして、委ねる。待つ。」

と、いう繰り返しの中で、

すぐすぐには結果は出なかったけれど、でも、少しづつでも動き出して、

動いては止まり、動いては止まり、

その中で私は、

「神様に委ねる」ことを学び、

事は終わった。





友人も、よく、悩みだしたら、

「神様の言う通り!」

って、

お任せすると言っていた。

これで、面白いように、流れが来るらしい。















でも、

どこまでが自分の範疇で、どこまでが委ねる範疇なのか?

これが、ほんと難しい。





自分以外の人が絡んでいる事を、

私たちは、いつも、よく悩む。





なぜなら、

他人は自分の思うようには、動かないから。

これは家族でも、そう。





「こうなる事が絶対に良い!」

「こうすれば良いのに!」

「普通、こうするでしょう。」

などなど、

自分のこと意外は、ついつい、自分の物差しで、こんな風に思いがち。

それも、相手を思っているから、だからこそ、

「こうしたら良いのに!」

って、思っている事が多い。





この「愛情」が、厄介なのだ。





「愛情」にも、深さの違いがある。

目先だけを見て、手を伸ばす、手を出す「愛情」と、

先を見据えて、先にある展開まで見て、手を出したり、出さなかったりする「愛情」、

相手の、その人の望むことをしてあげる「愛情」、

色々な「愛情」から発する言動がある。





そして、

これは、全て、間違ってはいない。





ただ、どの言動でも、

その後の相手の出方や、動きや、結果や経緯を、

自分の思う通りになることを望まないことが、大事なのかもしれない。

希望したり、望んだりすると、

そこが『執着』になりやすく、

ヨロシク無い流れになりやすいのではないだろうか?















いつでも、誰でも、何でも、

答えは一つではないし、

「正しい」とも「間違っている」とも、そんなものは無いのだ。

「近道」が良いとも限らないし、

「回り道」が悪いとも限らない。





結局は、

全ての結果も経緯も、

楽しんだもん勝ちなのかもしれない?





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