「不安」と「信頼」。
ふと思ったこと。
私は、いつもここで書いているが、
「不安」から、一生懸命に何かをしてしまう。
それは、
恋愛でなら、
「離れられたくないから」
であったり、
「思いを理解して欲しい」
であったりなのだ。
でも、それは、
どれにしても、まず、
「相手の気持ち」
や、
「私を理解してくれている」
という、
相手の範疇に対して、
私が、
「信用・信頼」してい無いってことなのだと。
私は、
主人との問題が起きた時に、
いつも、自分が悪い訳ではないのに、自分から積極的に動く。
それは、
電話や会話であったりで、
その時間と機会を、
私から出来るだけ作るのです。
でも、
よく聞く話では、
巷の女性は、そんな時は相手の出方を待つらしい。
「待つなんて、、、、、そんなこと出来ない!」
と、
いつも思っていた。
そこには、
上記に書いた気持ちがあったから。
常に、自分が愛されている自信が無かったのだよねえ。
でも、
逆を言えば、
自信が無いのでは無くって、
相手の気持ちを「信用・信頼」していなかったんだよね。
自分を思ってくれているってことに「信用」出来なくって、
「信頼」なんて、持てる余裕も無かった。
女性は、
自然界では「大地」と例えられることが多い。
昔の例えなら、
「男は船。女は港。」
ですねえ。(笑)
どちらにしても、
女性は、動かずに、そこに居ることが魅力のようだね。
ただ、そこに留まって、
そこで、いつも常に居る。常に待つ。。。。
それが、
男性には「安心」に映るのだろうか?
「与えた物しか戻ってこない」
「与えたものだけが与えられる」
それが真理であれば、
「安心」を与えなければ、
「安心」はもらえない。
「信用・信頼」をしていなければ、
「信用・信頼」してもらえないのだろう。
んーーーー。
まだまだ、ドシンと、そこに留まって待つことは苦手だけれど、
ちょっとだったら、
出来るようにはなれそうだ。
それは、
どこか、少しだけ、主人に対して「信用・信頼」をし始めて、
それを、
小さな確信として、
本当に、一つまみ程度かもしれないけど、握れるようになってきたからだと思う。
そこには、
「誰もが皆、神が創造したままの存在である」
と、
それを肯定して、受け入れてみて、感じてみたことも大きい。
恋愛で無くても、
ここ最近、ある人との関わりの中で、
「こう思われているんじゃないか?」
と、
マイナスに考えていたのだけれど、
悪く思われたくない私は、
何かしらの動きをしたくなる。
「連絡を取ってみようか?」
と、
今、何か連絡を取る用事も必要も無いのに考える。
そこには、
相手が、マイナスの感情を持つと、そう思い込んでいる私が居る。
それは、
相手にも、
自分自身にも、
「信用・信頼」していない証拠。
「私も、その人も、神が創造したままの存在である」
と理解すれば、
受け入れれば、
何も「不安」を感じる必要は無いのだ。
もし、ご縁が無くなろうとも、
もし、一時的にでもご縁が途切れようとも、
それは、
そこに意味があり、
そこに執着する必要は無いのだ。
全ては、
成るようになっているし、
必要なことしか起きないのだから。
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