2010年07月02日

「祈り」と「執着」の違い

「こうなりたい!」

と「目標」を持つこと。

とっても大事だと思いますし、

素敵なことだとも思います。





これが、

「向上心」となって、人間の進化にも繋がっているのだとも。





でも、これが、

『執着』なると、よろしくない。。。。















これって、

誰しも、進みだすと、分かんなくなりやすいと思いませんか?

私は、すぐに、分かんなくなります。(汗)





「こうなりたい!」

から、

「こうなったら良いな。」

「こうなるために、やってみよう!」

「こうなるように、頑張ってみよう!」

などなど、

「希望」や「思い」は、

『祈り』のように、

清らかに、清々しく、輝いている。





これが、いつの間にか、ズレてきだすと、

「こうあるべき!」

や、

「こうなければ嫌だ!」

や、

「なんで、どうして、、、、、」

と、

マイナスを引き込みやすい感情に変わっていきやすい。





このバランス、

ほんと、難しいよね。















確かに結果は大事。





たまーに、私も、

「結局、でも、結果なんだよね。」

と言ってしまうこと多いです。





でも、これって、

一つの結果に『執着』してしまうと、

批判的になったり、

自己卑下が酷くなったり、

ヨロシク無いことが、次々と湧いてきてしまう。





結果は、

「一つとは限らない」って訳ですよ。





「転んでも、ただでは起きない」的な発想とでも言うのかな?

「失敗した事が意味がある」

くらいの勢いとでも言いましょうか?

結果を「一つ」に限らなければ、

この発想はしやすいし、柔軟性も出て気安くなりますよね。















以前、ある方に、

一度、相談したことがった。

それは、

どう『執着』しないで、「目標」や「思い」と遂げるように進められるか?

という事。





「神様に委ねるんだよ!」

と、いう言葉をもらった。

「へ???そのまんま、丸投げで良いの???」

と聞くと、

「いやいや、最初っから、丸投げではダメだよ。

出来るだけ、自分でやれるだけの事をして、その後は、神様の委ねるんだよ。」

ということだった。





その時の私には、

かなーり、腑に落ちる内容だった。





「神様の言う通り!」

と、

そのまんま、丸投げだと、自分の成長が無い気がしていたので、

「やるしこやって、頑張って、もう、後は何もすることはない!」

ってなって、

「後は野となれ!山となれ!」

の境地とでも言いましょうか?

そんなとこまで行ったら、

もう、『執着』もへったくれも無いんだろうな。

と、思えた。





そして、その時の悩み(以前の車がらみの金銭問題です。)が、

相手先がやってくれないと解決できないという、

自分では動ける範疇が少ない事柄で、苦しくってもがいていたんだけど、

「出来るだけのことをアプローチして、委ねる。待つ。」

と、いう繰り返しの中で、

すぐすぐには結果は出なかったけれど、でも、少しづつでも動き出して、

動いては止まり、動いては止まり、

その中で私は、

「神様に委ねる」ことを学び、

事は終わった。





友人も、よく、悩みだしたら、

「神様の言う通り!」

って、

お任せすると言っていた。

これで、面白いように、流れが来るらしい。















でも、

どこまでが自分の範疇で、どこまでが委ねる範疇なのか?

これが、ほんと難しい。





自分以外の人が絡んでいる事を、

私たちは、いつも、よく悩む。





なぜなら、

他人は自分の思うようには、動かないから。

これは家族でも、そう。





「こうなる事が絶対に良い!」

「こうすれば良いのに!」

「普通、こうするでしょう。」

などなど、

自分のこと意外は、ついつい、自分の物差しで、こんな風に思いがち。

それも、相手を思っているから、だからこそ、

「こうしたら良いのに!」

って、思っている事が多い。





この「愛情」が、厄介なのだ。





「愛情」にも、深さの違いがある。

目先だけを見て、手を伸ばす、手を出す「愛情」と、

先を見据えて、先にある展開まで見て、手を出したり、出さなかったりする「愛情」、

相手の、その人の望むことをしてあげる「愛情」、

色々な「愛情」から発する言動がある。





そして、

これは、全て、間違ってはいない。





ただ、どの言動でも、

その後の相手の出方や、動きや、結果や経緯を、

自分の思う通りになることを望まないことが、大事なのかもしれない。

希望したり、望んだりすると、

そこが『執着』になりやすく、

ヨロシク無い流れになりやすいのではないだろうか?















いつでも、誰でも、何でも、

答えは一つではないし、

「正しい」とも「間違っている」とも、そんなものは無いのだ。

「近道」が良いとも限らないし、

「回り道」が悪いとも限らない。





結局は、

全ての結果も経緯も、

楽しんだもん勝ちなのかもしれない?







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Posted by Titania at 08:37│Comments(2)スピリチュアルなお話。。。
この記事へのコメント
最近悩みを聞いてくれていた人に、
『上手くいかなかったのは相手に期待したからだよ』
と言われました。
それも全く別の二人に。

期待と執着ってなんだか似てるような気がしました。
期待をしないで委ねるってほんと難しい。。
Posted by みやび at 2010年07月02日 15:20
♪みやびさん
そうなんですよねぇ。
でも、知らず知らずについつい期待しちゃうんですよねぇ。
だから、
「自分がしたくってしている」という基本に戻る。
そして、
「したい事をしていて、それを投げるだけ」にする。
そしたら、それは、相手がチャッチしようとしまいと、上手に投げ返そうと返さなかろうと、そこに、期待や思いや執着が無くなる。
だから、いつも、「自分がしたくってしている」ことが大事になってきます。
Posted by TitaniaTitania at 2010年07月03日 11:50
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