2013年10月11日
右脳型で行くことでしかダメなの?
生き方を変えるには、
考えるよりは、もう動いたもん勝ちってことがある。
考えるから動けないのもあるしね。
事を大きく変化させる、させた人の多くは、
よく、
「考えていたってしょうがないのよ。後はやるしかないんだよね!」
と言う。
私も、同じ言葉を言った経験もある。
それこそ、右脳的な感じで、
「バーンてやったら、ダーって事が起き始めて、で急に色んなことが動きだして行ったんだよ。」
ってな表現になるかな。
大きくことを変化させてきた人たちは、同じように言う。
「そんなに色々考えてたって何にも変わんないよ。」
「そのやり方を続ける限り、ずっと変わらないよ。」
「そのまんまじゃ、一生変わることは無いよ。」
とね。
でね。
上記にも書いたんだけど、
私も、そんな風に言動して、思いもよらないラッキーな結果を得たことはある。
たぶん、その話を誰かにした時には、
上記のように、
「いや、でも、もうやってしまえってなって、やっちゃったらね。。。。」
と、
頭で考えることを放棄して、
「結果がどうなるかも、もう、どうでも良いと思って」
で、
「後先も考えずに動いた話をしたんだ」
と、説明していたと思う。
そして、
動けないで、いつも堂々巡りをしている人に相談されると、
上記のように、
「そのまんまじゃ、ずっと変われないよ。」
と、
まるで、とっても簡単なことを、その相手が出来ていないように、
そんな風に、
言ってしまっていたかもしれない。
逆の立場で言われた時に、
その言葉が、
とっても簡単なことだと、感じさせれば感じさせるほどに、
とっても寂しく、悲しい気持ちにさせて、傷付くかもしれない言葉だとは、そのことは知らずに、、、、ね。
今まで、どう考えて頑張っても上手く行かないで、
堂々巡りのように、同じ負のループに入ってしまう事柄があったとする。
その流れを変えるには、
確かに、
今までと違う言動をすることが一番だとは思う。
今までのやり方を変える。
今までやっていたやり方を止めるか、
今までやったことの無いやり方をするか、
どちらかだ。
それを大きく分けるなら、
「いつも考えて言動していたんだったら、もう考えずにやってしまったら。」
となる。
「いつも、周りへの影響を考えて動けなかったのなら、周りへの影響を考えずに動く。」
とか、
「いつも、嫌だとは感じていても、後先を考えると不安で我慢していたなら、もう我慢せずに動いてみる。」
とか、
「いつも、克服することを大事にして努力して頑張っていたなら、諦めて頑張らない選択にしてみる。」
とか、
そんな感じだろうか。
今、私が思いついた上手く行かない流れの例えは、
どれも、頭で考えて動けない例えしか出てこなかったが、
それ以外のパターンもあるかもしれない。
ただ、
私が浮かぶのはこのパターンってことは、
私は、考え過ぎることで上手く行かないことが多いとも客観視できるよね。
では、
こうなってくると、
私の場合、、、、と限定しても、
考えることが無駄なのか?ってところに疑問を感じる。
右脳が優位になると、
思ったまんまに、すぐに、考える余地も無く動いていたりもする。
後先考えずに、、、、ってヤツだ。
これを今まで、ある意味、何度もやって来た過去がある。
私は、
あるカテゴリでは右脳的にやってきた部分があって、
あるカテゴリでは、全くそれが出来ていないんだと思う。
その裏には、
今までの経験などで、不安を感じずにやってしまえる部分と、
その成功体験が無いことや、
両親からの刷り込みなどで、
「やって良い」という許可が無意識に出ない場合もあるかもしれない。
後先考えずに動いた私を、
傍から見れば、
その私の言動によって、
奇跡とまでは言わないが、思いもよらないラッキーが起きたり、
「何だか凄いよね!」
ってことに結果なっていた。
私も、その頃は、そう思っていた。
だから、
その裏で誰かが私の為に頑張ってくれたり、我慢してくれたりしていたことにはまった気が付かないで、
そのまんま、素敵な出来事と思って、
何年もそういう類の経験の一つにしていた。
だけど、気が付いてしまったんだよね。
その裏には、いつも誰かの私に対しての思いやりや愛情があって、
そこに気が付かないままに、
胡坐をかいて、
勝手に、私が自分で巻き起こした奇跡のように、そう思って、
一人で喜んでいたことにね。
まぁ、その、私の思って陰ながらサポートしてくれていた人たちは、
「したくてした」のだから、
それはそれで良いんだとも解釈できるだろう。
確かに、私は、
私の一件で言えば、母や娘なのだけど、
「あの時に、こんなに我慢した。」
とか、
「いつも、いつも、あなたの為にこうしてあげている。」
とか、
まったく言われたことは無い。
だからと言って、
私がのさばっても良いとも思わないし、
『感謝』をする必要も無いとも言えないよね。
ただし、ここでは、
『罪悪感』は不要だということは、気を付けるべきかもしれない。
『罪悪感』では無く、『感謝』をすることだろう。
そして、
もう一つ、気が付いてしまったのは、
動けない人は、動けないなりの理由があるってことだ。
その人は勇気が無いだけではない。
優先順位が、
その、今現在の辛いことや苦しいことよりも別の事柄に在るだけなのだ。
ただし、
そのことに、本人が気が付いているかは別問題。
だから、
頭で考えて、実は、捨てられない、手放せない事柄の方が、
今自分を悩ませていることよりも、自分で優先しているんだとさえ気が付けば、
八方塞では無くなるのだよね。
それを認めることは、
人によっては辛いことで、見たくないことだったりもする。
認めたくなくって見ないようにするかもしれない。
でも、
それさえも、時期とタイミングだろう。
私だって、
考えることを放棄して、出たとこ勝負を掛けれたときって、
煮詰まり過ぎて、もうどうしようもなくなって、
で、
捨て身になっていたりするパターンもあるもんね。
その煮詰まって、「もうどうなってもいいや!」っていう捨て身になれる時こそ、
「時機到来」
なんだろう。
結局のところ、
頭で考えることは悪いことでは無いってことだ。
その時に、その人が優先したいことを優先していることには間違い無い。
ただし、
それを、本人が気が付いていないから厄介になっているだけなんだ。
だから、
八方塞がりに見えたり、感じたりしているだけなんだよね。
右脳的な人が素晴らしかったり、素敵だったりする訳では無く、
ただ、
それが簡単に出来る人って言うだけなんだよね。
左脳的な人がダメだったり、ノロマだったりする訳でもない。
ただ、時期が来ていないだけで、
そこには無意識であろうと、意図的であろうと、
実は、優先している何かが隠れているだけなのだよ。
それが、
自己を優先しているか?他者を優先しているか?は、別。
その瞬間には、
それが自分の幸せになるためには不可欠だと、そう思ってしまっているのだから、
その人にとっては、それで良いのだよ。
苦しい時間が無いことが良いこととも言えないし、
早く楽になることが良いこととも言い切れない。
だって、
無意識で自分を苦しめたい欲望がある時には、そうしたいんだもんね。
全ては「良い」「悪い」では片付かない。
ただ、それだけなんだろうな。。。。
考えるよりは、もう動いたもん勝ちってことがある。
考えるから動けないのもあるしね。
事を大きく変化させる、させた人の多くは、
よく、
「考えていたってしょうがないのよ。後はやるしかないんだよね!」
と言う。
私も、同じ言葉を言った経験もある。
それこそ、右脳的な感じで、
「バーンてやったら、ダーって事が起き始めて、で急に色んなことが動きだして行ったんだよ。」
ってな表現になるかな。
大きくことを変化させてきた人たちは、同じように言う。
「そんなに色々考えてたって何にも変わんないよ。」
「そのやり方を続ける限り、ずっと変わらないよ。」
「そのまんまじゃ、一生変わることは無いよ。」
とね。
でね。
上記にも書いたんだけど、
私も、そんな風に言動して、思いもよらないラッキーな結果を得たことはある。
たぶん、その話を誰かにした時には、
上記のように、
「いや、でも、もうやってしまえってなって、やっちゃったらね。。。。」
と、
頭で考えることを放棄して、
「結果がどうなるかも、もう、どうでも良いと思って」
で、
「後先も考えずに動いた話をしたんだ」
と、説明していたと思う。
そして、
動けないで、いつも堂々巡りをしている人に相談されると、
上記のように、
「そのまんまじゃ、ずっと変われないよ。」
と、
まるで、とっても簡単なことを、その相手が出来ていないように、
そんな風に、
言ってしまっていたかもしれない。
逆の立場で言われた時に、
その言葉が、
とっても簡単なことだと、感じさせれば感じさせるほどに、
とっても寂しく、悲しい気持ちにさせて、傷付くかもしれない言葉だとは、そのことは知らずに、、、、ね。
今まで、どう考えて頑張っても上手く行かないで、
堂々巡りのように、同じ負のループに入ってしまう事柄があったとする。
その流れを変えるには、
確かに、
今までと違う言動をすることが一番だとは思う。
今までのやり方を変える。
今までやっていたやり方を止めるか、
今までやったことの無いやり方をするか、
どちらかだ。
それを大きく分けるなら、
「いつも考えて言動していたんだったら、もう考えずにやってしまったら。」
となる。
「いつも、周りへの影響を考えて動けなかったのなら、周りへの影響を考えずに動く。」
とか、
「いつも、嫌だとは感じていても、後先を考えると不安で我慢していたなら、もう我慢せずに動いてみる。」
とか、
「いつも、克服することを大事にして努力して頑張っていたなら、諦めて頑張らない選択にしてみる。」
とか、
そんな感じだろうか。
今、私が思いついた上手く行かない流れの例えは、
どれも、頭で考えて動けない例えしか出てこなかったが、
それ以外のパターンもあるかもしれない。
ただ、
私が浮かぶのはこのパターンってことは、
私は、考え過ぎることで上手く行かないことが多いとも客観視できるよね。
では、
こうなってくると、
私の場合、、、、と限定しても、
考えることが無駄なのか?ってところに疑問を感じる。
右脳が優位になると、
思ったまんまに、すぐに、考える余地も無く動いていたりもする。
後先考えずに、、、、ってヤツだ。
これを今まで、ある意味、何度もやって来た過去がある。
私は、
あるカテゴリでは右脳的にやってきた部分があって、
あるカテゴリでは、全くそれが出来ていないんだと思う。
その裏には、
今までの経験などで、不安を感じずにやってしまえる部分と、
その成功体験が無いことや、
両親からの刷り込みなどで、
「やって良い」という許可が無意識に出ない場合もあるかもしれない。
後先考えずに動いた私を、
傍から見れば、
その私の言動によって、
奇跡とまでは言わないが、思いもよらないラッキーが起きたり、
「何だか凄いよね!」
ってことに結果なっていた。
私も、その頃は、そう思っていた。
だから、
その裏で誰かが私の為に頑張ってくれたり、我慢してくれたりしていたことにはまった気が付かないで、
そのまんま、素敵な出来事と思って、
何年もそういう類の経験の一つにしていた。
だけど、気が付いてしまったんだよね。
その裏には、いつも誰かの私に対しての思いやりや愛情があって、
そこに気が付かないままに、
胡坐をかいて、
勝手に、私が自分で巻き起こした奇跡のように、そう思って、
一人で喜んでいたことにね。
まぁ、その、私の思って陰ながらサポートしてくれていた人たちは、
「したくてした」のだから、
それはそれで良いんだとも解釈できるだろう。
確かに、私は、
私の一件で言えば、母や娘なのだけど、
「あの時に、こんなに我慢した。」
とか、
「いつも、いつも、あなたの為にこうしてあげている。」
とか、
まったく言われたことは無い。
だからと言って、
私がのさばっても良いとも思わないし、
『感謝』をする必要も無いとも言えないよね。
ただし、ここでは、
『罪悪感』は不要だということは、気を付けるべきかもしれない。
『罪悪感』では無く、『感謝』をすることだろう。
そして、
もう一つ、気が付いてしまったのは、
動けない人は、動けないなりの理由があるってことだ。
その人は勇気が無いだけではない。
優先順位が、
その、今現在の辛いことや苦しいことよりも別の事柄に在るだけなのだ。
ただし、
そのことに、本人が気が付いているかは別問題。
だから、
頭で考えて、実は、捨てられない、手放せない事柄の方が、
今自分を悩ませていることよりも、自分で優先しているんだとさえ気が付けば、
八方塞では無くなるのだよね。
それを認めることは、
人によっては辛いことで、見たくないことだったりもする。
認めたくなくって見ないようにするかもしれない。
でも、
それさえも、時期とタイミングだろう。
私だって、
考えることを放棄して、出たとこ勝負を掛けれたときって、
煮詰まり過ぎて、もうどうしようもなくなって、
で、
捨て身になっていたりするパターンもあるもんね。
その煮詰まって、「もうどうなってもいいや!」っていう捨て身になれる時こそ、
「時機到来」
なんだろう。
結局のところ、
頭で考えることは悪いことでは無いってことだ。
その時に、その人が優先したいことを優先していることには間違い無い。
ただし、
それを、本人が気が付いていないから厄介になっているだけなんだ。
だから、
八方塞がりに見えたり、感じたりしているだけなんだよね。
右脳的な人が素晴らしかったり、素敵だったりする訳では無く、
ただ、
それが簡単に出来る人って言うだけなんだよね。
左脳的な人がダメだったり、ノロマだったりする訳でもない。
ただ、時期が来ていないだけで、
そこには無意識であろうと、意図的であろうと、
実は、優先している何かが隠れているだけなのだよ。
それが、
自己を優先しているか?他者を優先しているか?は、別。
その瞬間には、
それが自分の幸せになるためには不可欠だと、そう思ってしまっているのだから、
その人にとっては、それで良いのだよ。
苦しい時間が無いことが良いこととも言えないし、
早く楽になることが良いこととも言い切れない。
だって、
無意識で自分を苦しめたい欲望がある時には、そうしたいんだもんね。
全ては「良い」「悪い」では片付かない。
ただ、それだけなんだろうな。。。。
Posted by Titania at 12:52│Comments(0)
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